人間の「裏表」概念について
先日、私は友人と会う約束をしていたのだが、待ち合わせ時刻までしばらく時間があったのでマクドナルドで時間を潰していた。
ローストコーヒーのホットを注文し、空いている席に腰をかける。
隣には奇抜な服装をした推定大学生の男女が座っていた。
私はブログを更新していないことを思い出し、持ち歩いていたパソコンを開く。
コーヒーをすすりながら、キーボードを叩く私の姿はさぞかしダイキもコージも連れていないタイプのキャリアーウーマンに近かったとのちに語り継がれることになる。
そんな「ブログ」という業務に追われていた私だが、数百字を画面に打ち込んだところで手を止めなければならないことになる。
その原因は、隣に座っている奇抜な大学生男女だ。
「あの男、まじありえないんだけど。ムカつく。顔で判断してんじゃねえよ。ねえ?そう思うでしょ?」と愚痴を吐くその女に対し、男は奇抜な外見とは裏腹に「うんうん」と女の愚痴をひたすら受け止めていた。
いつだって男女の間には分かり合えない溝があるのだろう、私は遠い目をしながらブログに意識を切り替えようとしたものの、女の愚痴は止まることを知らない。
「分かるよ、確かに私はブスかもしれない。けどさあ!」
「あ〜、男ってなんでそうなのかな。ムカつくわ。」
「人間のさあ、そういう水面下での争い、マジ嫌いなんだけど。」
無限に吐き出される数々の愚痴に、夜空に浮かぶ無数の星たちの存在が脳裏を掠る。
「男/女なんて星の数ほどいる」という言葉があるが、その無数の星が存在する天の川の水深はマリアナ海溝レベルに深いのかもしれないと思った。
男は聞き役に徹しているのか、どんなことがあろうと「うんうん」しか言葉を発さない。きっと途中から意識が天空に飛んで「今自分たちが見ている星って実は数百年前に消失した星の光なのかもしれない」と考えている可能性が高い。発想がもはやラピュタ。
しかし、女はそんな男の態度に気づくことはなく、ただひたすらに愚痴を並べ、こう発したのである。
「人間って裏表しかない。
ていうか、裏しかない。」
私はこの言葉に愕然とした。
「裏があるからこそ表があり、表があるからこそ裏がある」と娑婆の世界で生きている人間は考えるに違いない。
しかし、女は人間を「裏しかない」と述べることで、人間が持つ二面性を打ち消そうとしたのだ。つまり、人間は二面性を持つ生き物ではなく、「裏しかない」すなわち「裏でも表でもない側面的な要素」を人間は持ち得る存在である、と女はここで述べている。
これは歴史上、新しい哲学(フィロソフィー)の領域になり得るのではないだろうか。
ドイツの哲学者であるカントは「哲学は学べない。学べるのは哲学することだけである。」という名言を残しているが、この女は今まさに「哲学」しているのである。
2017年ももうすぐ幕を閉じるが、あなたは今日も「哲学」しているだろうか。