「aikoに似ているは褒め言葉ではありません。侮辱に近い言葉です。」
大学に入ってから私が言われ出したこと、それは「aikoに似ている」だ。
大学の友人にも初対面のカフェの店員にも初対面のおじさんにも「aikoに似ている」と言われる。この言葉を生涯忘れることはないだろう。
前回の記事でも少し触れたが、自分の中で「aikoに似ている」は褒め言葉ではない。褒め言葉に見せかけた巧妙なディスりである。「芸能人に似ていると言っとけば褒め言葉になるだろう」という発話者の浅はかさがそこにはある。
大学入学当初「aikoに似ている」は褒め言葉なのかと猜疑心を抱いていた私は「aiko 似ている 褒め言葉」で検索をかけた。するとYahoo!知恵袋に同じような質問が4〜5つ掲載されており、そのベストアンサーは
「それは褒め言葉ではありません。侮辱に近い言葉です。」
であった。このベストアンサーの回答者にaikoは一体何をしたというのだろうか。自然と私は口を開き、声をあげ、目から涙を流していた。そうあまりの衝撃による笑い泣きである。
私は「aikoに似ている」という言葉がどういう意味を持つのか知りたかっただけなのに、気づけば私の関心は「aikoとベストアンサーの回答者の関係性」に変化していたのだった。春うららの良き想い出である。
それ以降、私に中には「aikoに似ている=侮辱に近い言葉」という概念が形成され、「aikoに似ている」と言われても素直に喜ぶことができなくなった。いや、「aikoに似ているは褒め言葉なのか?」という猜疑心を抱いていたあたりから、「aikoに似ている」は自分の中で褒め言葉ではなかったのだろう。
世の中には未だに「aikoに似ている」と言われて悩み続けている人たちがある一定数存在するのかと思うと心苦しいばかりである。どうかそんなに思い詰めないでほしい。その言葉はただの「侮辱に近い言葉」に過ぎない。
ここまではいかに「aikoに似ている」がディスりであるかを述べてきた。しかし、同時にこうも思うのだ。私は本当に「aikoに似ている」のか、と。
こちらの写真をご覧いただきたい。口角が急降下している五月のササキである。
aikoに似ている要素はあまりないように思われる。強いて言えば髪型と目の離れ具合だ。つまり正確に言えば「aikoに似ている」のではなく、顔面のパーツに「aikoに似ている」部分が組み込まれているということになる。
そんな微妙な部分をわざわざ掘り下げ「aikoに似ている」と言葉を発する人たち。いや、そんな微妙な部分をわざわざ掘り下げなければ会話が成立しない状況を生み出している私の顔面。
つまり、私の顔面に褒めるところがなさ過ぎた挙句の果てに、渋々といった状況で「aikoに似ている」と相手に言わせているのかもしれない。この悪循環はウロボロスの蛇のようなものだ。
褒めるところのない顔面→「aikoに似ている」→「ディスられた」と感じる→褒めるところのない顔面→「aikoに似ている」→・・・
どこかでこの悪循環を断ち切らなければならないが、顔面は整形でもしない限り変えることはできないし、発話者に意図的に「aikoに似ていると言わせない」というのにも限界がある。となれば、「ディスられた」と感じることをまず先に止めなければならない。
一度植えつけられた概念を取り払うのは長い道のりになりそうだ。しかし、できる限りの努力はしていかねばなるまい。じゃあ、まずはこの一言から発しよう。
あァ〜、aikoに生まれて、よかった!